2010年03月

いきさつ-何故僕らはデハ3499を入手するに至ったのか?-

ある掲示板によれば、あの車は僚機デキ3021を追って群馬まで来たものの、道に迷って山の中に来てしまったのだそうだ。

あの車とは、東急車輌製造・横浜本社工場の敷地端に保管されていた、元東急のデハ3499。“目蒲線・池上線の緑の電車”の最後の生き残りの1両。

僕らはそれを、自分たちでカネと労力を費やして保存することにしたわけだが。

まずはなぜこのような有志保存ということになったのか、そのいきさつをお話ししておくことにする。

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実のところ、あの車についてはずっと前から目をつけていた。

東急沿線に育ち、昨今鉄道保存活動のありかたに関心を持ち続け、国内外の事例をいろいろ見聞きし、それを踏まえて自力で何かをしようと思ったとき、労力かけて残すならあの車だと思っていた。

京急の金沢文庫駅から歩いてしばし。万年塀ごしに、車体の上半分が見える。そこから見る限り多少の錆と塗装の色あせが見られるが、そんなに状態は悪くないように感じた。台車はどうやら外され、傍らにシートを被せて保管されているらしいのが、敷地に隣接するスポーツクラブの駐車場からかいま見えた。

何度か所在確認のため足を向け、子供の頃見慣れた緑の車体を見つけると、

「いつか救ってやるからな。」

僕はそう呟いて夕暮れの帰途、とりあえずそこに姿があることでほっとしていた。

しかし、いつどうやって実行に移す、というところで、ずっとふんぎりが付かない状態だった。

負うべき責任の大きさ。電車を手にするということは、それだけで自分の人生が変わってしまうことを意味する。時間ばかりが経過した。

虫の知らせというんだろうか。

ちょっとご縁あって乗った貸切列車に、東急車輌で設計をされているSさんが乗車されていた。以前1~2度お目に掛かった程度で、僕の顔はあまり覚えていないようだったため、少しつっこんだ話は気が引けたが、やはり気になるのであの電車の動向を聞いてみることにした。

意を決して聞いてみればなんと「アレは来週解体するよ」というではないか!

しかもその間には週末が挟まり、受入先を求めて動くにはあまりに時間が無さ過ぎる。

目の前が真っ暗になりそうだった。Sさんには、もう動きは止められない、と言われた。

諦めなければ、そう自分に言い聞かせて帰途についた。茫然自失という感じだった。

でも、諦めきれなかった。

斯界の著名な方はじめ各方面に連絡を取り、可能性を探った。

この段階で必要なのは移送先の場所、それから購入・移送資金、場合によっては土地確保にかかるお金だ。

少し前から、できることならここにしたい、という場所があって、ある方になんとかならないか打診した。そこは、外野からすればあの電車の設置場所として、本来なら誰しも納得するであろう場所だった。

その方は僕の気持ちを十二分に汲んで下さり、無礼千万な直談判に等しい話に長時間割いて頂いたが、さまざまな事情を勘案すると難しい。事実上無理だ、というお話だった。諦めて帰るより他なかった。

お金については、立替でなんとかなりそうという目途がないではなかった。しかしなにしろそれは、10年来の友人N氏が真面目に働いてこつこつ貯めた貯金、いわば「結婚資金」ともいうべきお金だ。確実な返済をしなければならない。そんな彼も以前からアマチュアボランティアによる鉄道保存活動には興味を持っていて、どうしても残さなければならない車両が出たとき、緊急用に立替えてもいい、とは言っていたが、そういうお金だけに、できれば使いたくはない。「金の切れ目が縁の切れ目」、という恐ろしい言葉が頭をよぎった。しかし、いちかばちかで話を振ると、彼はなんとか承諾してくれた。

そして、それらを踏まえて、Sさんに解体中止の可能性について再度打診をした。Sさんからの返答は、「確実に引き取って貰えるなら解体中止は可能だ」というものだった。あわせて、運搬するどころか持ち上げるだけでもやっとかも知れない位状態は良くない、とも言われた。

とりあえず見せて欲しいと申し出、解体前々日の3月22日、後に共同発起人を名乗ることになる計3名で金沢文庫へと向かった。

Sさんに案内され、敷地の片隅に向かうと、デハ3499は僚車デヤ3001や伊豆急クモハ101と並んで置かれていた。いずれも台車は外され、車体は角材を積んだ馬の上に載せられていた。

言われたとおり、状態は決して芳しくなかった。裾は腐食でところどころ穴が開き、貫通扉は思うように締まらない。天井からは塗装がべろべろと剥落し塗膜が垂れ下がっている。まさにお化け電車の様相だ。

色あせ、埃まみれ、部品の欠落も至る所に見受けられるその姿は、古くも常に清潔に整備されていたあのころの面影とは程遠い姿だった。雨漏りの形跡がほとんど見受けられないだけマシかと思った。

そしてこの時点ではまだ、移送先の目途は立っていなかった。

現車を目の前にして、僕は腕を組んで唸るばかりだった。

そのとき、傍らでは同行のE氏が携帯で電話を入れていた。

群馬の親戚の方が、地元でかなり大きな事業をしていらっしゃること。その方がたまたま今日、上京していて、主旨を話したら会って下さるらしいこと。

どうやら土地に関して、可能性があるらしかった。

決断を迫られた。やめる、となれば、明後日にはコイツは粉々になる。

ウンウン唸る僕の傍らでパン、と手を打つ音がした。「ハイ、決まり!」

そう言ったのはE氏だった。

とりあえず東急車輌を辞し、都内へと向かった。待ち合わせ指定場所は帝国ホテル。

ちょっとたまげて、腰が引けたが、まぁとにかく小汚いいでたちゆえ、急遽ジャケットとショルダーバックを調達し、E氏と向かった。

こそばゆい場所であるが、ここが大一番である。

喫茶コーナーから地下の中華料理店に場所を移して話は和やかに進んだ。

なんとか、なりそうな雰囲気だった。

夜、改めてN氏、E氏と共に、品川でS氏に落ち合った。その席で、土地・お金ともなんとかなる、ということで、解体中止を正式に申し入れた。

Sさんは、「それじゃ私は明日、会社中駆け回って全力で解体を止めなければいけない」と言われた。

翌23日夕方、N氏と僕とで東急車輌に向い、K部長以下お三方にお会いした。

K部長は僕らが席に着くなり、開口一番「解体は止まりました。」

実際のところ、東急車輌の現場の方々も、あの電車の潰される姿は見たくはなかったらしい。

K部長も、「イヤー良かった良かった!」と、喜んで下さった。

持っていく先を群馬だと告げると、「最近群馬は保存多いなあ~」なんて言われたけど。

何故救い出せてしまったのだろう?冷静に考えると、いまでも実に不思議だ。

ハタから見れば奇跡なんだろう。

とにかく1週間、自分はシャカリキに走り回っていた。で、その行く先々で筋道が繋がる手応えを得続けることができたのは確かだ。そして1週間かけてぐるっと回って戻ってきて

「電車を買います。だから解体中止してください。」と言えてしまう材料を、曲がりなりにも得ることができてしまった。

僕らはあの電車に残さなければいけない価値があると、「勝手に」思っている。だから行動を起こした。

企業は利益を生むことが第一義だ。公的機関はその恩恵にあずかる人々の公益に還元することが第一義。企業や公的機関が誰もあの電車にカネや労力を投下し、維持保存するだけの価値対象から外れるなら、勝手にそう思ってる自分たちが汗をかいて自力で人・モノ・そしてカネを投下するしかない。

解体予定日前日。賽は投げられた。何かが通じた瞬間だった。

僕らが僕ら自身の手で、これからあの電車の進むべき道筋に“線路”を敷設することになった。

大金出して苦労を買う、そんな日々がスタートしたことになる。

なお、もう1両、デヤ3001は木部腐食の酷さ、そもそも2両は抱え込めないことなどから諦めざるを得ず、予定通り24日に解体された。

仕方がなかったとはいえ、どこか心の奥に引っ掛かるものを禁じ得ない。なにしろ僕は小学校の行き帰り、いつも通学路に面した車庫の一番端にいる、あのデヤの顔を横目に眺めて通っていたのだから。