2010年04月

いきさつ2-土地と線路、そして電車-

解体中止から3日後、帝国ホテルのときにお会いした方々、K社長とN女史に落ち合って現地に向い、最初に紹介されたのは川沿いの畑。今は使っていないらしいが、耕されて思いっきりフカフカになっており、これではロードローラーなどを用いて充分に転圧かけないと沈んでしまう。しかも表通りから裏手に入り、一段下がっているそこへトレーラーを入れてクレーンで吊上げるには、どうみても無理がありすぎる。更に、農地を別の用途に転用するには「農地転換」という用途変更手続きをしなければならず、これには1年程度の時間を要するというのだ。

ヤバイかも・・・正直焦ったが、N女史の機転で、地元の不動産屋に連絡を取ってくれた。

しばらくして不動産屋の軽自動車が到着。用途を説明すると、一帯の土地をいくつか案内してくれた。しかしどれも帯に短くナントヤラという感がある。なにしろ山の稜線にかかっていて、平面の土地がない。

そうこうするうち、不動産屋氏「そういえばあの土地ならいけるかも知れない」という。

「ちょっと歩きますがいいですか?」と言われたあとについていくと、Sカーブの道路の向こう、坂を降りた先に三角形の土地がある。なんでも土地のオーナーが隣接地に私設美術館を計画していたとかで、ここはその駐車場になるはずだったらしい。計画倒れに終わり、隣にはその美術館の躯体が廃墟よろしく建っている。しかしその廃墟は、スプレー落書きなどで荒らされている形跡もない。ということは、電車を無人の場所に置いておいても、少なくともバンダリズム被害の心配は低そうだ。あとは泥棒テツ対策。これが実に頭の痛い話ではあるのだが。

通りから目立つため、防犯上の問題はあるし、そもそもこんな山の上まで電車牽いたトレーラーが上がって来れるだろうかと思ったが、一方で通りから直接アクセスできるから吊り卸しもラクだし、通り側からは電柱がないので電線に引っ掛ける心配もない。そもそも駐車場用地として整地されているから転圧がかけてあって、地面もがっちりしている。目分量だからなんともいえないが、水平についても問題ないだろう。面積も申し分ない。時間的にもこれ以上探している余裕はない。

「ここにします」と返答した。

さて、前回「線路を敷く」と書いたけど、見つけたのはただの空き地であって、当然のことながら線路なぞ無い。

本当に線路を敷かなければならない。電車が載るレールは模型屋さんでは売ってない。ユニトラックにホンモノの電車が載るわけがない。更に、鉄道を生業としている会社以外、ただの素人がレールを入手するなぞそんなに容易ではない。全部業者に丸投げする手もあるけど、ただでさえもお金のかかる話に、更にべらぼうな額が上積みされてしまう。資材調達から敷設まで自分たちでやるしかない。

昨今公私ともにいろいろお世話になっているYさんから、大阪のK産業なる会社を教えて貰った。

そこへ連絡を取り、しばらくして上がってきた見積は40万円。

売ってくれるだけでもありがたいけど、もう少し安くならないかと思う。

その頃、西鉄北九州線車両の保存活動をしているTさんから、かなり割安で資材が入手できる旨連絡をもらっていた。

そして紆余曲折の末に手に入った資材はといえば、レールは岡山の片上鉄道保存会さんが保管されていた元岡山臨港鉄道出自のもの、延長25m分。枕木は島原鉄道の廃線区間、通称南目線と、同じく廃止されたJR可部線の混合なのだそうだ。なんとも不思議な組み合わせだし、そもそもそんな遠方から資材を調達しなくても・・・と思われそうだが、やはり時間がなく、他のツテを探す余裕もない。K産業よりも安ければいいや、という位の気持ちで頼んでしまうことにした。かくして、西日本でディーゼルカーが行き来したレールと枕木に、東京の古豪電車が載ることになった。

この段階では、まだ書類のやりとりしかなくて、相変わらず工場の片隅に置かれた電車と、何もない空き地と、未だ見ぬレールと枕木がバラバラに散在している。電車に至っては車体と台車が別々に保管されている。

本当にひとつ場所に無事集結して、あるべき姿になるんだろうか。「最初の一週間」をシャカリキに突っ走った結果、ハタと後ろを振り返ると、これはエライことをおっぱじめてしまった!という気になる。

前出の東急車輌のSさんからも、あとはかつて車両メーカーで電車の設計をやっていて、今は模型屋さんをしていて、仕事でもいろいろお世話になっている方からも、台枠に腐食が回っていると、運んでいくうちにどうなるかわからない、と言われた。

模型屋の親父さんからは「朝テレビ付けたら見覚えのある電車が道路の真ん中で座っちゃってるなんての、やめてよね~」なんて脅かされたりした。

戦前の電車は台枠にほとんどの強度を持たせていて、ごつい中梁が通っていること。戦災復旧車なんていうのも以前は多くあったが、この中には焼け車体を台枠だけ残して解体し、台枠のうえに新しく車体を作り直す、なんてこともしばしばなされていた。近江鉄道のように、台枠部材目当てで旧型国電の解体を請負って、発生した台枠部材を用いて自社工場で車体を作り直していた、なんていう例もある。それくらい、車体全体に占める台枠の重要度が高かった。車体なんて、台枠の上に載ってるだけに近い考え方だったはず。もしかしたら、車体の上モノに列車としての強度をかけられない木造車の考え方から脱却しきれていなかったのかも知れない。

これが戦後、それこそ東急の青蛙5000とか小田急SE辺りからは車体全体で強度を持たせるモノコックになっていくから、車体の部分的な腐食とか、車体が逆への字に反るような変形とかは、致命傷になりうることは、なんとなーくはイメージできる。しかるに模型屋の親父さんが設計屋をしていた頃は165系や103系、Sさんは今まさに最新鋭のE233系や東急の新5000系が基準。セミモノコックの軽量鋼体の設計思想とその特徴・ウィークポイントが前提のはず。そういえばどこかのウェブサイトで新京成800の解体シーンを見たが、屋根の真ん中、中扉の上をカニバサミをつけたユンボでバチン!とつまんでちょん切ったら、そのまま車体が逆への字にしなってしまっていた。台枠だけで荷重を支えていたら、こういうふうにはならない。

1931年製造初年の東横・目蒲モハ510→東急デハ3450を設計・製造された方なぞ、設計当時どんなに若くても生まれは明治20~30年代の人たちになる。西暦1900年、明治33年生まれのウチの爺さんと同世代で、こうなるともう110何歳以上、国内とか世界最高齢クラスになってしまう。いくらなんでも生きてはいまい。輸送しても大丈夫だ、という反論に確たる証拠が得られる人はまずいない、ということだ。なにしろ自分も一応大学で機械工学は出てるし、ずーっとベッタリの鉄道ヲタであり、マニアではあるけど、車両構造のプロってわけではない。上述のとおり時代が違って設計思想の根本が違うし、今の物差しは通用しない。そう思うけど、それをその模型屋の親父さんや、東急車輌のSさんのような「その道のプロ」相手に確証持って一席ぶてる自信があるわけがない。意地を張ってちょっと啖呵切ってみたりもしたけど、まさに釈迦に説法。それこそプロとマニアの一線がそこにあるんだよな、とこのときつくづく思った。

車体が折れたりしなくても、床下機器を道路にバラバラ撒いて走るんじゃないかとか、そんなことを考えてはゾッとしていた。

とにかく事は動いてしまっている。あとは神頼みとばかり、かつての緑の電車のネグラ・奥沢検車区にほど近い奥沢神社で交通安全のお守りを調達してくることにした。故郷のムラの氏神様に守ってもらおうというわけだ。普段は碌な信心も無いくせに、こういう時だけ神頼みとは虫が良すぎる気もするが。